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『歴史評論』編集長のつぶやきブログ。
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私の記憶が確かならば、高校生のころ「君が代」を歌った記憶があり ません。ごく普通の県立高校でしたが、私の母校ではそのころ、入学 式や卒業式のプログラムに「君が代」斉唱が入っていなかったのだと 思います。それが私の記憶違いだったとしても、一九八〇年代までは 全国的にも、「君が代」斉唱を実施していなかった学校が少なくなかっ たのは間違いありません。そのことの意味について、その当時はもち ろん、高校卒業後もしばらくは考えたことはありませんでした。しかし、 私は歴史を学びつつ、学習指導要領の改訂や国旗・国歌法の制定を めぐる議論を知るなかで、「君が代」をめぐる問題の意味を理解するよ うになりました。近年、良心的な教員にとって、卒業式・入学式のシー ズンは重苦しい季節となっています。大阪の高校では、教職員がきち んと歌っているかどうか、管理職が口元までチェックしていたことが報 じられました。こうなったらいっそのこと、最初の出だしの「き」を「た」 に替えて歌ったらどうか、などと妄想したりしますが、どんな歌にした ところで国歌は現代版の踏絵となる可能性があります。歴史を学ぶ とは、このような現代の諸問題をあぶり出すことでもあります。 PR
暴力と無縁な歴史は地球上のどの地域においても存在しない、という
のは確かなことかもしれません。実際、歴史の教科書は暴力の事実で 溢れています。暴力は人間社会にとって、回避することのできない宿 命ということになるのでしょうか。私の答えは否です。個人の暴力は人 類が生まれたときから存在したかもしれませんが、集団的な暴力は農 耕社会の登場とともに発生したというのが通説的な理解でしょう。世界 史的に農耕の開始がおおよそ一万年前であったとすれば、人類の登 場が数百万年前といわれていますから、戦争のような集団的暴力の 登場は人類の歴史全体から見ればつい最近のことになります。そうだ とすれば、人間社会にとって、暴力は避けられないものだと考える必 要はありません。暴力を人間社会の宿命とは考えず、暴力の歴史性 を考えること、すなわち、それぞれの時代・地域の暴力の固有性につ いて考察を深めることが、どうしたら暴力を回避することができるかと いう道筋を探り当てることに通じるものと私は信じます。今号の特集 は、現代世界における暴力の淵源を、20世紀初頭のアメリカ合衆国 における暴力に求めることができるのではないか、との仮説のもとに 編まれています。活発な議論を期待します。
歴史研究の主要な対象やテーマはそのときの時代状況によって変化
するものである、というのはその通りでしょう。私が歴史学を学び始め たころは、宗教をめぐる問題を卒業論文のテーマにしようとする者は、 それほど多くはなかったように思います。もちろん戦前以来、宗教史の 研究がまったくなかったわけではなく、そのなかには重要な研究成果 や問題提起があったことも確かな事実です。しかし、本質的かそうでな いかというような議論の方法のもとでは、宗教をめぐる問題を正面から 扱おうとする空気は希薄だったのではないでしょうか。宗教をめぐる問 題が積極的に取り上げられるようになった現在と比べてみると、右の ようなかつての状況は隔世の感があります。それは、経済史を基軸と する発展段階論への懐疑の気分が充満するなかで、宗教が絡んだ紛 争・事件とともに宗教から得られる癒し・安寧も注目されるという、現代 の時代状況を映し出しているということなのでしょう。日本近世史にお ける宗教問題を扱う今号の特集は、そうした研究動向の延長上に位 置づくものです。人間の営為のすべてを視野に入れ、総体としての歴 史像を議論するためには、宗教をめぐる問題は無視できません。
いつの頃までであったでしょうか。どんなに反動的な状況になろうとも、
二〇世紀前期のような時代に後戻りすることは考えにくい、と私は高を 括っていたところがありました。それは、日本国憲法の第九条と改定 前の教育基本法の存在があったからです。これらには、多くの犠牲を 伴いつつも長い時間をかけて到達した普遍的な真理があるということ を、歴史学の成果から私は学びました。そうした精神を大事にしてい る限り大丈夫だと思っていたのです。しかし、教育基本法が改定され、 その一角が崩されたいま、ひょっとすると近い将来思いも寄らない事 態が起こるかもしれない、との想いが私に重くのしかかってきていま す。それだけに、憲法九条は私たちが未来に向かって継承しなければ ならない最後の拠り所となった、との感を強くします。こうした状況に対 して、いま私たちに何ができるでしょうか。立ち向かわなければならな い相手の大きさと、自分のできることの小ささとを見比べて情けない 気分にもなりますが、嘆いているだけでは何もしないことと同じである ばかりでなく、現在の風潮に荷担することにもなります。今号を読みな がら、傍観者には決してなるまいとの誓いを新たにしました。 事務のHです。本年もどうぞよろしくお願いいたします 。年が明けて、寒波がやってきましたね~。体調管理に気をつけたいところです。 昨年、歴科協では2つの声明をだしました。中学歴史教科書採択に関する声明、 そして「日の丸」常時掲揚・「君が代」斉唱時起立条例の強行可決に抗議する声明 です。教育に政治が介入し、罰則をもって思想を強制する。そんな時代がかつて あったこと、その悲劇を二度と繰り返してはならないことを、私たちは歴史から学び 知っているはずです。なのに何故?と、憤りともどかしさを感じずにはいられません。 絶対に憲法9条を手放してはいけない。編集長の誓いにも励まされ、私も思いを新た にしています。沖縄基地問題も含め、日米同盟、9条ににどう向き合っていけばよい か、今特集号から学びたいと思います。
いうまでもなく歴史学は過去の人びとの営みを明らかにする学問です
が、史料をもとに実証した事柄にはどのような意味があるのかという 点については、全体を見渡すような広い視野が必要です。その枠組 みをどのように設定するかは、歴史学を取り巻く社会状況や歴史学徒 それぞれの問題関心によっても異なります。近代に成立したにすぎな い国民国家の枠組みを相対化し、一国史観を克服することが要請さ れて久しくなりますが、アジア史の文脈のなかで日本史を考えようとい うのはその一環でしょう。比較史をテーマとした国際シンポジウムも同 じ意図から行われます。このようなスケールの大きな議論は広く世界 を鳥瞰できるという意味で魅力があり、実際確かに一国史観を克服 できる可能性を持っているものと思われますが、そのスケールが大き いだけにそこには落とし穴もあるような気がします。単に複数の国の 問題を扱えば一国史観を克服できるというのは錯覚で、かえって国家 の独善的な史観を補強する場合もあるのではないでしょうか。それを 回避するためには、どの時代、どの地域を扱うにせよ、生活者にとっ ての視点を常に念頭に置くことが大事なのではないか、と今号を読み ながら私は考えました。
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