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文化とか思想という語は、何か高尚なものを連想させるところがあります。そして、その担い手は知識人や上層階級が想定されがちです。そこには、自分の言葉で自らの記録を残さない人びとが文化や思想に関わることは難しい、との思い込みがあるのではないでしょうか。近代日本の労働者文化を扱う今号の特集は、それがいかに思い込みであるかを明らかにしています。と同時に、文化という語が多義的な内容を持つものであることに注意が払われるべきではないか、との感想を私は持ちました。もちろん、研究史を振り返ってみると、民衆文化・民衆思想という枠組みが提起され、研究対象とされるのはいまに始まったことではありません。それらの研究成果は現在までに豊富に蓄積されており、議論を通じてその分析方法も鍛えられてきました。そこでは、生活という語を立脚点に、人びとの存在形態の意味が解き明かされてきたように思いますが、今号の諸論考を通じて、民衆文化の内容にも多様性があり、生活様式とともに労働様式からも立ち上げて民衆文化を豊かに描く必要があることに改めて気づかされます。民衆文化を考える際にも、一括りにしない視座が求められるということなのでしょう。
。いま、孤独死が増えているといいます。それは、地域が共同体としての機能を失いつつあることの反映と見る人もいます。かつては克服すべき封建遺制の代表とされた村共同体が、近年の村落史研究において、人びとが生きるためのセーフティネットの機能を内包するものとして再評価されつつあるのは、そうした現代社会の問題を意識しているからなのでしょう。村の共同性は個人の自由を束縛する共同体規制として、否定的に評価された時代と比べると隔世の感があります。ただし、共同体規制か、セーフティネットか、という二者択一的な議論は正しくないように思います。近世の村に生きた人びとにとって村の共同性が救いだったのは、この時代が単独で生活するのに厳しい時代であったことを意味しており、両者は村の機能としてのコインの裏表であったということなのではないでしょうか。だからといって、孤独死が増えている現代社会において、共同体規制を強めるべきだというのではもちろんありません。それは、共同体規制という負の側面を無視したところに立脚した意見だからです。個人として尊重されつつ、人びとが安心して生活できる仕組みはどうあるべきかという議論が必要です。
(事務のHです。今回は3月号の特集にちなんで、地域の共同体のお話でした。新聞でも毎日のように「孤独死」や「無縁社会」という言葉を目にします。「無縁」はもう都市部に限ったことではないようですね。一方、非常に地縁が濃く、地域が共同体としてガッチリ機能しているところもあります。私の地元などはまさにそれで、寄合、互例会、無尽などが頻繁に開催・組織され、冠婚葬祭も近所で互いにお手伝いして執り行うという・・・
。相互扶助の面では大変心強いのですが、その分縛りがきつく、結構大変です。共同体が近世と比較してどのように変化したのか、編集後記をヒントに3月号を読んで勉強したいと思います。)
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。新たな編集委員、編集三役のもと、『歴評』はまた新たなスタートをきります!引き続きどうぞよろしくお願いいたします。今年も残すところあと僅か…どうぞ良いお正月をお迎えください
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に入れる肉は、西が牛で東が豚が定番なんだけど、その境界は三重県桑名市長島だって、さるテレビ番組でやっていました。カレーに関しては、名古屋はどうも東の文化圏に入るらしいのだけど、こういうのって物によって違いますよね。数日後、11月20日・21日に名古屋で開かれる総会・大会の懇親会で出てくる食べ物について、東西から集まったみなさんの感想をまとめてみると面白いかも…
。さて、その名古屋で開かれる総会・大会をもって編集長を解任していただく予定です。そして三年間不出来の編集長を支えてきてくださった編集幹事のK・Sさん、さらに約15年にわたって校正幹事を務めてきてくださったK・Yさんも退任されます。二年前に『歴史評論』制作の責任が校倉書房から歴科協に移り、それまで制作の大黒柱だったY・Hさんの手を離れて、この二年間は三人で必死に頑張ってきました。その体制を次期にどう引き継ぐかが課題だったのですが、どうやら望みうる最強の陣容に引き継ぐことができそうです
。どうか応援をよろしくお願いします。